自宅と仕事場を兼ねているケースが多い、小説家や漫画家、美術家など作家の家。生活の場であり、創作の場でもある家にはどんなこだわりが詰まっているのでしょう。
作家の家を訪ね、その暮らしぶりや創作風景を拝見する連載「作家と家」。第1回目は、『天才 柳沢教授の生活』『不思議な少年』『ランド』(全て講談社)などで知られる漫画家・山下和美さんの自宅を紹介します。
長年のマンション暮らしをやめて伝統的な日本建築である「数寄屋」を建てた山下さんは、その顛末をエッセイ漫画『数寄です!』(集英社)でも描いています。なぜ「数寄屋」だったのか。「和」の暮らしは、山下さんの心にどんな変化をもたらしたのか。こだわりの和室や仕事場をご案内いただきながら、お話を伺いました。
※取材は、新型コロナウイルス感染症の予防対策を講じた上で実施しました
住んだら終い、じゃない。伸びしろが“できる”家
山下さんが家を建てたのは2012年の春。都内の閑静な住宅街に調和する、美しい数寄屋造り(以下、数寄屋)。かねてより抱いていた“和”への憧れを体現した住まいです。
「家を建てる前、私はこのままじゃダメだ、ちょっと背伸びをしなきゃいけない! と思っていた時期がありました。これからも漫画を描いていく上で、頑張る理由になるような目標が欲しかったんです。でも、具体的に何をすればいいのかわかりませんでした」
そんな折、山下さんは偶然、数寄屋建築家の田野倉徹也さんと出会います。
田野倉さんは、エッセイ漫画『数寄です!』に登場する“蔵田さん”のモデルになった人物。数寄屋の家づくりに並々ならぬ情熱を持つ田野倉さんの思いにも後押しされ、山下さんは数寄屋を建てる決断をします。それは、人生最大級の“背伸び”でした。
「資金に余裕があったわけではなく、むしろお金はずっと苦労しています。土地の購入後に懐が厳しくなり原稿料を前借りしたし、今もローンが残っています。だけど、田野倉さんの勢いに押されたこともあって、私も腹をくくろうと(笑)。
当時、人からは『家を建てたらゴールだね』みたいなことを言われたりもしました。だったら、住んだら終いじゃなくて”伸びしろ”ができるような家にすればいいんじゃないかと思い、数寄屋を建てたんです」
千利休の時代、茶の湯の“侘び寂び”を体現する場として生まれた数寄屋。そんな家に住みながら、茶道をはじめとする日本文化を習得し“数寄者”になりたい。そんな思いで完成した数寄屋は、暮らしの文化を高めてくれるような、まさに「伸びしろができる家」でした。
「ただ、今はお茶も生花もほとんどできていないですね。家を建てたあとに、すごく忙しくなってしまって。茶室も全く使えていないので、お茶の心得のある人が道場破りにきたら、何もできずに城を開け渡すしかありません(笑)」
今はまだ数寄者になりきれていない。けれど、山下さんは焦ってはいません。この家と時を重ねながら、機が熟すのを気長に待っています。
「数寄屋は古くなるほど味わいが増すんですよね。だから、今はサボってしまっているお茶や生花も、私がその気になるまで逃げずに待っていてくれるような気がするんです。いつでもスタート地点に立てるというか、これからやろうと思えば何だってできるんじゃないかって」
家が「仕事場」だからこそ、日常と非日常をかけ合わせて
2階にある仕事部屋は“シンプル”がテーマ。机の上には最低限の資料が置かれているだけ。漫画家の仕事場とは思えないほど簡素でスッキリしています。
「資料用の本はたくさんありますが、目に入る場所には置きません。子どものころ、大学教授だった父の本が家中にあふれていたためか、本に囲まれた生活に若干のアレルギーがあって。その代わり、階段の脇にいっぱい積もっていますけどね」
「ペン入れをする机は、斜め前にある壁掛けのテレビが見やすいよう弧を描くような形に。じっくり映画を見る時間がとれないので、ペン入れをしながら眺めています」
他に、仕事部屋の設計でこだわったのは、明るすぎず暗すぎない光の加減。アシスタントや編集者も多く出入りする仕事場と、寝室などプライベート空間との近すぎず遠すぎない距離感。
田野倉さんと相談しながら、ちょうどいい塩梅を探っていきました。完成後もよりよい仕事環境を求めて、数年前に机を全てつくり替えるなど、アップデートを重ねています。
また、部屋だけでなく、仕事道具も新しいものを取り入れました。
「作画はずっとアナログだったのですが、数年前からモノクロ原稿はiPad Proで執筆しています。導入した当初は戸惑いましたし、慣れるまで時間がかかりました。ただ、アナログだとどうしても手が痛くって。これからも長く描き続けたいし、今のうちに切り替えておこうと。
スクリーントーンのカスが出ないので、家が汚れないし、猫のためにもいいのかなと思います」
作画は主にこの部屋で行っていますが、ネームなど思考を必要とする作業のときは、場所を変えることもあるそう。
家にずっといる仕事だから、と田野倉さんが意識してくれたのが「リゾート感」。旅館やホテルに泊まって執筆しているような気分を味わえるよう、しかし「生活」のしやすさも忘れず、非日常と日常のバランスに気を配ってくれたそうです。
「落ち着きがないので、家の中のいろんな場所をウロウロしながら仕事しています。1人でネームに集中したいときは1階の和室に行くことも。最近、大きな絵を描く仕事があったんですけど、その時は茶室に籠っていました。本来の茶室の用途ではないのですが(笑)。家の中で気分転換できるので、コロナ禍で外出できなくてもストレスはないです」
和室の「意味」を教えてくれた空間
くつろぎたいときや一人で集中したいときに過ごすという1階の和室。
玄関を上がってすぐのところに畳敷きの広間、その横に茶室があり、二間続きとなっています。5匹の猫も、ここには入って来られないようにしているそう。
「秋になると、庭に植えてあるイロハモミジの影が障子にふっと映るんです。それがとても綺麗で。和室ってシンプルだから、庭の景色が変化したり、掛け軸を替えるだけで季節の模様替えが済んでしまうんですよね。
格式が高そうと思われるかもしれませんが、むしろ手入れは楽です。インテリアの流行に左右されず暮らせる。そういう意味では、最初はお金がかかっても、結果的に経済的なのかもしれません」
物心ついたころから、畳に親しんできた山下さん。3歳から11歳まで住んだ小樽の家は畳部屋ばかりで、二間続きの和室が主な生活スペースでした。
「そのころは和室を洋室のように使っていました。勉強机や二段ベッドを無理やり置くから畳もボロボロで。当時は高度経済成長期で、和室の生活に西洋がどーんと入ってきた時期だったんです。大人になってから和室付きのマンションに住んだこともありましたけど、なんか違うんですよね」
現代の暮らしに合わせた和室には風情や和みが感じられず、いつしか、“ちゃんとした和室”に住んでみたいと思うようになりました。
「この家に畳の部屋をつくろうと考えたとき、杉並区にあった祖父の家を思い出しました。昭和ヒト桁に建てられた和洋折衷の文化住宅で、掘りごたつ付きの畳部屋があったんです。小津安二郎さんの映画で、笠智衆さんが座っていそうな」
山下さんが思い描いた和室は、幼少期を過ごした二間続き。そして、小津安二郎さんの世界。そのイメージは、田野倉さんによって見事に具現化されました。
「この場所で過ごしていると、改めて和室は美しいなと感じます。部屋自体もそうですし、庭の景色や季節を美しく切り取る額縁でもある。ここに暮らしてから、和室の意味がやっとわかってきたと思います」
否応なく「建築」の漫画を描かざるを得なくなった
ここに住み始めてから約10年。「古くなっても劣化はしない家」と山下さんが話すとおり、10年の月日はむしろ、この家をますます魅力的に感じさせてくれます。
最低限のメンテナンスはするものの、神経質になりすぎることはなく、あまり目につかない場所の障子は破れたまま放置するなど、いい意味での無頓着さも。
「編集者をはじめ“お客さん”がよく来る家なので、1階の和室など、やんなきゃしょうがない場所は自分で障子を貼ることもあります。誰も面と向かっては言いませんが、『ここ破れてるな……』って視線を感じるので(笑)」
自分では対処しきれない不具合が出れば、職人がすぐに駆けつけてくれるのも心強いといいます。
「ここを建ててくれた職人さんが、そのままメンテナンスもやってくれて。数寄屋って、そういうものみたいですね。建てっぱなしじゃなくて、その後も面倒をみてくれるので助かっています」
生活しているだけで、心が落ち着く空間。ここに住むようになって、考え方や作風に変化はありましたか? という問いには「特にないかも」と答えつつ、知人に変化を指摘されたり、新たなテーマが舞い込んでくることはあるようです。
「私が変わったというより、和や建築といったテーマが容赦なく降りかかってくるようになった、という感じですかね。現在、尾崎行雄さんがかつて住んでいた明治時代の洋館を保存・活用するプロジェクトを進めていて、『数寄です!』に続いて『世田谷イチ古い洋館の家主になる』(集英社)というエッセイ漫画を描き始めました。否応なく建物の漫画を描かざるをえない人生になったなと思いますね(笑)」
お話を伺った方:山下和美
1980年、「週刊マーガレット」からデビュー。主に少女マンガ誌を中心に活躍していたが、『天才 柳沢教授の生活』で「モーニング」に不定期連載を開始。以降、『不思議な少年』など話題作を発表し、女性、男性問わず幅広い人気を得る。昨年、「モーニング」にて約5年半連載していた『ランド』が完結。3月30日より自身初となる原画展を開催予定。
Twitter:@kazumiyamashita
原画展詳細:山下和美画業40周年記念原画展(ヴァニラ画廊)
聞き手・文:榎並紀行(やじろべえ)
写真:関口佳代
編集:はてな編集部